愛知県議会 2019-02-01 平成31年2月定例会(第3号) 本文
興味深いことに、名古屋城築城の折、乙川の地に流れる浅井川からとれた巨石を城の石垣のために加藤清正公の石引きのように運んだことが山車の起源であるとの伝承が地元では伝えられており、乙川八幡社に伝わります宝暦五年(一七五五年)に尾張藩に提出されました祭礼絵図にも、祭りの様子が今でも色鮮やかに描かれております。
興味深いことに、名古屋城築城の折、乙川の地に流れる浅井川からとれた巨石を城の石垣のために加藤清正公の石引きのように運んだことが山車の起源であるとの伝承が地元では伝えられており、乙川八幡社に伝わります宝暦五年(一七五五年)に尾張藩に提出されました祭礼絵図にも、祭りの様子が今でも色鮮やかに描かれております。
平針木遣り音頭は、名古屋市指定の無形民俗文化財であり、名古屋城築城の際、石材や木材の運搬で力を合わせる目的で歌われた木遣り音頭を伝承したものと言われておりますが、そのステージを非常に楽しみにしております。 国民文化祭では、三十六日間の期間中、県内の五十四市町村全てにおいて、さまざまな文化イベントが開催されます。
特に、錦三丁目地区は、さかのぼること江戸時代初期、名古屋城築城により、清須から名古屋へ都市の移動、いわゆる清洲越しにより形成された町人町の中心地域であり、戦後は、名古屋市の復興計画に基づき、区画整理や地下鉄東山線、錦通の整備が行われる中で再び発展した地域です。
本町通りは、物づくりから発展した地域で、多くのお寺や神社から形成され、堀川は、家康に命ぜられた福島正則が名古屋城築城のためにつくられた運河として、周辺には多くの歴史的建造物を残しています。
堀川は名古屋城築城のために人工的に作られた川であり、上流がなく非常によどんでいるが、官民一体となって様々な努力がなされ、庄内川からの試験通水も始まり、徐々に改善してきている。
いま少し歴史をたどってみますと、十四山村は今から約三百六十年ほど前の一六四七年ごろ、徳川義直公が名古屋城築城記念事業として鬼頭景義に命じ、愛知郡、海東郡、美濃安八郡の十二の新田と、現在弥富町の平島新田、現在愛西市の鵜多須新田、そして十四山村の計二十七の新田を開拓したものであります。
歴史をひもとけば、名古屋の町づくりは、江戸時代初頭の徳川家康の命による名古屋城築城と清洲越しに始まると言われております。六万から七万と言われた清洲の城下町の家臣と町人、農民がことごとく名古屋城下に移住し、それとともに清洲の町名も挙げて名古屋に移されたのであります。
その第一点は、堀川はその昔、名古屋城築城の折に掘られた運河であり、他の河川とは異なり、堤防らしきものもなく、家屋が川岸いっぱいに建てられている上に、護岸が老朽化している区間が非常に多いという特徴があり、治水上、広い河川空間の確保と護岸の整備が急がれております。